読んだ本、読んだ漫画、観た映画などの、ごく個人的な感想を綴るブログです。


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ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
(1984/05)
J.D.サリンジャー

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感想:★★★★★

ちきしょう、世の中、インチキな奴らばっかりだ!って思うことありませんか。私はあります。
「私の周りは素晴らしい人ばかりだ」と思うこともあるのに、やっぱり「インチキ奴らの集まりだ」って思うこともあるのです。こういう煩悶って、大人になれば失くなるものだと思っていたけど、そうそう簡単に失くなったりはしないんですね。
思春期の頃と違うのは、「インチキで当たり前だ」って気付くから、いちいち憤慨したり抗ったりせず、そんなもんだって諦めるようになったこと。
愚かしいことに、自分だってインチキな部分はあるから、他人を緩さないと自分も赦せないことになってしまう。大人になって自分を赦せないのは辛い。だから諦める。
でも、この作品の主人公ホールデン少年はまだその域までは来てないから、見ていて痛々しい。

既にこの作品は世界的名作として有名すぎるので、私なんかが今更何を書いたところでその魅力を明確に書き記すことは出来ないのですが、私にとっての「バイブル」と言えばこの本なのです。

このホールデン少年と同じ様だった頃が、私にもありました。世の中の何もかもがインチキに見えて、大人の真似事をして暴走して失敗するのです。笑えます。この本はまず、単純に面白いです。

あれで優しい心持ち主なら、狼だって優しい心の持ち主だね。映画のインチキな話なんか見て目を泣きはらすような人は、十中八九、心の中は意地悪な連中なもんさ。


わかるよ!ホールデン少年!私もそう思ってた!みたいな共感、
まるで十代の頃の自分の言葉を聞いているかのようなセリフたちがたくさん登場します。

これがいつも僕には参るんだな。会ってもうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。


そこへ行ってどうするかというと、僕は唖でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。そうすれば、誰とも無益なばからしい会話をしなくてすむからね。


繊細すぎるようだけど、思春期の頃ってこういう夢を誰しも見ると思う。
思春期の頃の痛々しさを、あくまで主観的に見事に描きすぎていて、見ていて苦しいやら恥ずかしいやら、笑えるやら。

それでも、ライ麦畑で崖から落ちそうな子供たちを救う、「ライ麦畑の捕まえ手になりたい」と語り、赤いハンチングを後ろ向きに(野球の捕手、キャッチャーのように)被るイノセントな気持ちを持つホールデン少年。

先生に、崖から落ちそうなのはお前の方だってもっともらしく説教されても、やっぱりその先生もインチキというか、インチキ通り越して変態っぽくて恐怖し、傷付いちゃう。大人への不信感は益々募って行く…

踏んだり蹴ったりだけど、それでも救いがある。
最後に妹のフィービーに、赤いハンチングを被らされるホールデン少年。
回転木馬に乗りぐるぐる回り続ける妹を眺めながら、幸福な気持ちになって救われるシーンは、傍観者の私も、あたたかい気持ちにならざるを得ません。

ちなみに、野崎孝訳と村上春樹訳の両方を読みましたが、私は野崎訳が好きです。
読んだことない人には絶対に読んでもらいたい本のうちの一つ。
インチキな出来事、インチキな人物にぶつかってイライラした時に読むとスカッと笑えて、そして癒されます。

こんなだった頃の自分が懐かしくて、でも笑い飛ばせる。最後にはきちんと癒される。
そんな本です。私のバイブルです。

原題「The Catcher in the Rye」を、野崎孝氏が「ライ麦畑でつかまえて」と訳したのも秀逸すぎる!

おすすめ解釈コラム
www2.dokkyo.ac.jp/~esemi006/rpt01/nagatake.htm

赤いハンチングを妹にかぶらされた時、このハンチングを恐らくツバを前向きに被らされたので「キャッチャーではなくなったのだ」という見解があって、私も多分、そういうことだと思う。
現に、その直後雨が降ってくるけど、「赤いハンチングのおかげで、ある意味では助かった」という描写がある。
ツバが前に無いと、物理的にも「助かった」とは言いがたいし、
精神的な意味でも、キャッチャーじゃなくなったから「助かった」という描写に繋がるのだと見ることも出来る。

子供のキャッチャーになりたいホールデン少年は、結局子供にキャッチされちゃう、
そんな滑稽な物語です。大好きです。

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この記事へのコメント
ほんとうのキャッチャーはアントリーニ先生じゃないかな
主人公のようにインチキに惑わされる子供たちを、社会からフェード・アウトさせず、これから先も生き抜いていけるように、よりよい説法を使って救おうとしているわけだからさ
だから主人公は眠いとか何とか言って誤魔化してたんだと思う
それにあの場面で彼のお家芸である皮肉を殆んど言わなかったことも大きい
でも最後のキャッチャーになりたい自分がキャッチされてるって部分については同意です
  1. 2011/09/15(Thu) 05:33:00
  2. URL
  3. 通りすがり #-
  4. [ 編集]
こんにちは。考察しがいのある、有意義なコメントをありがとうございます。

コメントを頂いて、自分なりに再び「キャッチャー」ということについて考えてみました。こういった機会を与えて下さったことに感謝します。

まず、私が「キャッチャーはフィービーだ」と思った理由は以下の2点が大きな理由でした。

(1)「西部へ行って聾唖として暮らす」と決意したホールデンだったが、フィービーがそれを止めて、ホールデンはそれを辞めたから。
→西部へ行って聾唖として暮らすことは、ライ麦畑の崖から落ちることと同じである(人間として、一人の少年として、人間らしく子供らしく生きることを放棄した、堕落である)と思うからです。それを止めたのがフィービーだから、という考えからです。

(2)消去法的に言えば、様々な登場人物をキャッチャーである可能性の無いものから消していき、残った人間は確かにアントリーニ先生やフィービーが考えられるが、アントリーニ先生に会ったあとに「西部へ行って聾唖として暮らす」と決意しているから、アントリーニ先生がキャッチャーだとは考えなかった。
→もしアントリーニ先生がキャッチャーだとしたら、この時点でその考えが思い浮かぶかな?という疑問があることと、(それは、上にも書いたように、西部に行って聾唖として暮らすことと崖から落ちることを私は同義に考えているというのが大前提にあります)本当にアントリーニ先生に救済されたのであれば、物語上、フィービーに会う必要が無いように思えるからです。

今回、上記2点について考えるにあたり、以下のページなどから影響を受けていることを記しておきます。
http://www2.dokkyo.ac.jp/~esemi006/rpt01/kozakai.htm
http://www2.dokkyo.ac.jp/~esemi006/rpt01/nagatake.htm

さて、では通りすがりさんの仰る様に、「アントリーニ先生がキャッチャーの場合」について、そう考えられる理由を私なりにも考えてみました。
私の頭の中には、アントリーニ先生はキャッチャーではなく、割りにまともな部類の大人ということしかないので少し難しかったのですが、以下の記事を読んで、アントリーニ先生キャッチャー説について、少し理解が出来た気がしました。
http://www2.dokkyo.ac.jp/~esemi006/rpt01/yamada.htm

アントリーニ先生は確かにホールデンを救おうとしていますし、ホールデンが先生に尊敬の念や感謝を感じているのも確かですもんね。

もう少し、通りすがりさんがアントリーニ先生=キャッチャーであると思う理由を綿密に伺ってみたいなと感じました。
そして、私が思っていたこととは違う新たな解釈を教えて頂き、感謝します。こういったことを考えるのはとても楽しいです^^*

長文になってしまい大変失礼致しました。
また是非色々教えて下さいね。
コメントありがとうございました。
  1. 2011/09/15(Thu) 17:16:53
  2. URL
  3. ミカ(管理人) #-
  4. [ 編集]
 こんにちは。丁寧な返答ありがとうございます。
 かくいう私もこの本にキャッチされたひとりです。一時期は肌身離さず持ち歩くほどで、言わば「私の全て」でした。

 西部に行くこと=堕落の淵
 これは私も同意見です。
 ホールデン少年は今まさに「崖から落ちる」直前だというのは間違いありません。ファック・ユーの存在を認めてしまった場面があります。この際、これまで行われてきた主人公とインチキとの闘いの終焉をしました。孤軍奮闘してきた主人公が一方的に闘いを放棄してしまったからです。これはある意味で「人生は競技だ」と言うスペンサー先生の言葉に対して、主人公が抱いた感想に通じるように思えます。主人公が弱いチームに所属していたから負けたのです。しかしこれは成長とも取れます。インチキな存在を許容できるようになったわけですから。ここで厭世的になって西部に行くか、そういう事実を踏まえたうえで社会で生きて行くか、それほど選択肢はありませんが、後者を選ばないと堕落の一途をたどってしまいます。それを物語中で救ったのがフィービーです。

 私はアントリーニ先生がキャッチャーだといいました。この言い方は少し誤解を生んだかもしれません。彼こそが「ほんとうの」キャッチャーだと言いたかったんです。たしかに他にも彼をキャッチしようする人がいました。しかし、それは主人公にとっては単なる価値観の押し付けであってそれを受け入れることができず、ことごとくキャッチに失敗しています。
 私がアントリーニ先生がキャッチャーだと思う理由に明確な根拠は正直ありません。ただ単に、いち読者として(私も主人公に自分を投影していましたから)、救済された相手が彼だったというだけのことかもしれません。

 とはいえ、もちろん思い当たるところはあります。かなりの部分を憶測で語っているのでいささか説得力に欠ける意見ではありますが、とにかくそれを幾つか挙げてみます。主にアントリーニ先生の人柄についての考察です。
 まずはじめに、直接的な描写はありませんが、実はアントリーニ先生も、かつてライ麦畑から落ちそうになった、あるいは主人公のそれに近い思い――つまり先生も世間との乖離を実感していたんじゃないかと思うのです。
 どこかしらシンパシーを感じているからこそ、主人公に対してよくしてあげるのだし、先生がD.Bの小説を評価するあたりや、死体に布をかけてあげるくだりもその一部として汲み取ることができます。また、先生はウィットに富んだ喋りをしますが、小説全体を通して見るに主人公もまた同じようです。この点からみて、ひょっとするとホールデンは相当彼の影響を受けているのでと推測できるし、少なくともその節を感じます。
 おそらく先生は、ホールデンもといライ麦で遊ぶ子供たちを、完全ではないにせよ本質的に理解している唯一の大人です。彼の立ち位置こそホールデンの行くべき到達点(キャッチャー・イン・ザ・ライ)であり、その実、先生はライ麦畑に出たり入ったりしつつも、社会で生き抜いているように見えます。
 たしかに物語中ではホールデンはフィービーにキャッチされました。しかし、主人公の「なりたいもの」であるキャッチャーになるためには、アントリーニ先生のような人にならなければならず、あるいはホールデンは自身を先生に投影しているのかもしれません。理想がホールデン式キャッチャーで、現実はアントリーニ先生というわけです。

 だいぶうっちゃけた文章になってしまい、そのうえ長く拙い文章で申し訳ありませんが、ざっと述べるとこんなふうです。
 この本は色々な読み方ができて面白いですね。それぞれの解釈があるからこそ作品に深みが出て、というかそもそも答えなんて存在しないように思えますし。
 この度のライ麦考察、とても面白かったです。私がこの記事を読んだのも、たまたま検索に引っかかったのがきっかけで、何となく読んでいるうちにいつの間にか熟読していて、しまいにはつい意見をしてしまい……まあこんなところです。早速このサイトをブックマークしました。
 これからも興味深い考察やレビューを期待しています。それでは。
  1. 2011/09/17(Sat) 03:32:03
  2. URL
  3. 通りすがり #-
  4. [ 編集]
こんばんは。返信が遅れてしまい申し訳ございません。
こちらこそ、大変丁寧なご返信を頂き、誠にありがとうございます。頂いたコメントを、じっくりと拝読致しました。

この本は本当に大切な本ですよね。
肌身離さず持ち歩きたくなる気持ちがとてもよく分かります。

さて、前回頂いたコメントを読む限りでは分からなかったことが、この度頂いたコメントで非常によく分かりました。
私がもう少し綿密に伺いたいと書いたことに対し、通りすがりさんが「アントリーニ先生がキャッチャーだ」と仰った意味、その所以、全てどれも納得出来る形で綿密に、誠実に教えて下さったことに心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
小説を書いている方でしょうか。話のまとまりごとに改行+文頭一文字空白を空けて頂いているのに気付いて、丁寧なご返信に恐縮しきりです。

>ファック・ユーの存在を認めてしまった場面があります。この際、これまで行われてきた主人公とインチキとの闘いの終焉をしました。しかしこれは成長とも取れます。インチキな存在を許容できるようになったわけですから。

まずはこの部分ですが、とてもよく分かります。前のホールデンだったら絶対に許せない、と思っているものを諦めています。大人に近付いているのがとてもわかります。

そして、通りすがりさんが彼こそが「ほんとうの」キャッチャーだと仰った意味も、とてもよく理解出来ました。私の中で、この本を読む上での有意義で新たな解釈が生まれました。今まで全く気付かなかったことですが、言われてみればなるほど確かに、と思うばかりです。

>  おそらく先生は、ホールデンもといライ麦で遊ぶ子供たちを、完全ではないにせよ本質的に理解している唯一の大人です。彼の立ち位置こそホールデンの行くべき到達点(キャッチャー・イン・ザ・ライ)であり、その実、先生はライ麦畑に出たり入ったりしつつも、社会で生き抜いているように見えます。
>  たしかに物語中ではホールデンはフィービーにキャッチされました。しかし、主人公の「なりたいもの」であるキャッチャーになるためには、アントリーニ先生のような人にならなければならず、あるいはホールデンは自身を先生に投影しているのかもしれません。理想がホールデン式キャッチャーで、現実はアントリーニ先生というわけです。

特にこの部分がとても分かりやすかったです。
(どこをとっても分かりやすかったのですが、この部分でまとめて下さっていたので、ここを引用致します)

彼がホールデンを救おうとしていたこと、そこにホールデンへの自己投影が含まれているらしいこと、だからこそホールデンの髪を撫でていたのか?といった疑問も浮かび、アントリーニ先生こそが、ホールデンの目指しているキャッチャーなのだ、ということをとても実感しました。
確かに、フィービーのキャッチャーぶりとは大分違いますね。そして、それぞれがまさしくキャッチャーです。
フィービーは、ホールデンの目指すようなキャッチャーとは違う、ほとんど無意識の(西部に行くことを引き止めたとはいえ、それはキャッチャーであろうとした意図的なものではない)キャッチャーですものね。
一方でアントリーニ先生は、まさしくホールデンの目指していたキャッチャーに非常に近いですね。
ここには、教えて頂けなかったら気付かなかったところだったと思います。
そして、また読み返したくなりました。しょっちゅう読み返してはいるのですが、また読み返してみますね^^*

この本の、普通に読んでも笑えて面白くてテンポよく読めてしまう軽快さと、考えていけば考えていくほど意味深で細やかなセリフ、できごとが、何度読んでも温かで新鮮な、そして身に覚えのあるような気持ちを与えてくれて魅力的です。

この記事を、当作品を大事に思っているかもしれない方に読んで頂くのはとても恐縮なことだと痛感した反面、このように新たな解釈を教えて頂けたことに心から感謝しております。
本当にありがとうございました。
自分の稚拙さの恥晒しとはいえ、この記事を書いて良かったと実感しております。

私は学歴もなく勉学に疎いので、また稚拙な感想文を書くこともあるかもしれませんが、その時はまた是非色々なご意見や解釈など教えて頂ければ幸せです。
今回のコメント、私にとって大変有意義なものとなりました。
通りすがりさんに教えて頂いたことはきっとずっと忘れないと思います。
本当にありがとうございました!
  1. 2011/09/19(Mon) 19:28:12
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  3. ミカ(管理人) #ICazf28Y
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