読んだ本、読んだ漫画、観た映画などの、ごく個人的な感想を綴るブログです。


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※さっきまでタイトルが「19話までに思ったことメモ」だったのですが
「20話まで」に変更しました。


簡単なメモです。多分どんどん追記していきます。今はざっくりと。
日本語おかしくてもスルーして頂けると幸いです。


KIGAとはどんな組織なのか

冠葉や真砂子の父のことを、眞悧が「この世界の間違いを正す者に選ばれた」と言っていましたが、その組織がKIGAであることが19話で明確になりました。

冠葉の両親はおそらく自らを正義と信じて「地下鉄のあの事件」を起こし、多くの犠牲者を出したわけですが、その「テロによって人を殺す行為」も「この世界の間違いを正す」行為のうちの一つであり、KIGAがそれを信仰していたっぽいことはやはり否めないように思います。


※11/27 20話を見てからの追記
20話で、決行前日に、高倉剣山がスピーチをしています。
この時点ではピングフォースのマーク。

「もうここは、氷の世界なのだ。幸いなるかな、我々の手には、希望の松明が燃えている。これは聖なる炎。明日我々は、この炎によって世界を浄化する。今こそ取り戻そう。本当のことだけで、人が生きられる美しい世界を。これが我々の生存戦略なのだ!」



この考えがピングフォースという組織にはあったのに、何故人を殺してしまうんでしょうか?
彼らはやはり、それを「正しい行いである」という考えのもとで行っていたようです。


では「この世界の間違いを正す」とはどういうことなのか。
超超個人的主観からいうと「生きるべき人間が死に、死ぬべき人間が生きている」ってことを間違いだって言っている気がするのです。
飢餓や戦争の真っ只中に生まれる何の罪も無い子供が死に、少なからず罪を犯しながら人間はのうのうと生きている。それでは不公平である…世の中を平等にしなくてはいけない。
そういった信仰がもしKIGAにあったとして、その平等願望の現われとして「ペンギンの顔が白と黒の半分に分かれている」のではないかと思ったり…。
残酷ですが、「死ぬべき人間が生きているからテロで殺す」ということ。
※11/27 20話を見てからの追記 高倉剣山のスピーチを聞いている限り、頑なに自分達の正義を主張した上での地下鉄の事件・・・「死ぬべき人間が生きているからテロで殺す」、もうそれほどの理由が無いと、あの事件を起こす理由として成立しないと思いました。)
これは実際に地下鉄サリン事件の動機でもあります。フィクションではなく、実際にあった犯行動機なのです。。詳しくはこちらの記事を参照して下さい。
「[考察]輪るピングドラム 第12話「僕たちを巡る輪」」


KIGAは人の運命をねじまげることを目的にしているのか?

・「死んでしまった」陽毬を救うために、KIGAリンゴを魔法の薬に変えて生き返らせる
・他人の記憶を消した(もしくは再生しようとした)真砂子のピンポン玉にもKIGA

どちらにも言えるのはそれが自然の摂理に逆らった不自然な操作であるということ。

私は、この物語は運命を変えようとする物語なんだろうと思って見始めました。
でも前回の記事にも書いたように、それは違うのかも知れないと思い始めました。

他人の生死を操ろうとすることは罪であると私は思います。それが他者を殺めることであればもちろん罪ですが、生き返らせることも同列に罪に思います。

愛による死を選択した者へのご褒美である苹果にもKIGAマークがありますね。
他人の記憶を操作しようとした真砂子のピンポン玉にもマークが。
でも真砂子は父親と同じレールには乗らないって言っていたけど、何故KIGAマークのピンピン玉を使っているんだろうという疑問が…

※11/27 20話を見てからの追記 真砂子は子供の頃からあの組織に出入りしていたのですね。あのピンポン玉は使うけど、考え方そのものまではあの組織に染まってはいないようです。)

上にも書いたように、
当初、この物語は「運命を変えようとする話」だと思っていたのですが、そうではないのかなぁという感想を、話しが進むにつれ抱いています。
「そのために裏技的手法を以って生死を操ることは不自然だし間違いだろう。では、抗えない運命(罰)に対峙したときどうするのか…」という話なのかなぁと、個人的にそんな感想を抱いています。
そういった話なのだろうかと。


対立する二つの「運命の変革」

※以下、20話を見てから、11/27に大幅に加筆修正致しました。

眞悧が19話で、運命日記のことを

「彼女、これで日記を燃やしてくれるかなぁ。僕にはそれが出来ないからね。あれがあると、僕はゲームに勝てないんだよ」



と言っていました。

では、「ゲーム」とは何なのでしょうか。
18話のあとに私がツイッターで書いたことです↓

ピングドラム。裏技的手法(冠葉の謎の大金と薬を引き換え)を以って延命を試みる眞悧派と、ピングドラムとやらを手に入れて延命を試みるクリスタル(=桃果?)派に分かれ対立しているけど、恐らく前者は間違った方法で、それっておかしい、って結論になり、後者のピングドラムとは、抗えない運命のなかでいかに生きるのかってこと、そういった考え方そのもののこと、 かも知れないと妄想。それを見つけた暁に…… どうなるんだろう。笑



このツイートを要約すると、眞悧派とクリスタル派で対立している、ということを書きたかったのですが、
つまり、「ゲーム」で眞悧が勝負している相手は桃果です。恐らくプリンセス・オブ・クリスタルです。運命日記が眞悧の敵です。
では何故運命日記が眞悧の敵なんでしょうか。

それは、価値観の相違です。

「この世界は間違っている。死ぬ妹を救いたいのであれば、対価を払えば生き返らせる。陽毬は罪の無い子供なのに、死ぬのはこの世界が間違っているから。だから、死者を生き返らせても良い。対価は必要だけれど、対価さえ払えば、人を生き返らせても良い。」

という考えなのが、眞悧派+闇うさぎ。あと冠葉もです。

それに対抗するのがプリンセス・オブ・クリスタル。
12話で、クリスタルはこう言っています。

お前達はピングドラムを失った!世界は再び闇うさぎを呼び込んだ。運命の日はすぐそこまで近付いている!
ピングドラムを手に入れろ…。妹の命を救いたければ…。己を縛る「運命」から逃れたければ…。そのレールを切り替えたければ…ピングドラムを見つけて…奴を…止めろ…。



クリスタルは、「奴を止めろ」と言っていました。奴とは眞悧のことでしょう。
「世界は再び闇うさぎを呼び込んだ」とも言っています。
つまり眞悧&闇うさぎの3人は、クリスタルにとっては敵なのです。

では何故敵なのでしょうか?
さきほども書いたような

「この世界は間違っている。死ぬ妹を救いたいのであれば、対価を払えば生き返らせる。陽毬は罪の無い子供なのに、死ぬのはこの世界が間違っているから。だから、死者を生き返らせても良い。対価は必要だけれど、対価さえ払えば、人を生き返らせても良い。」

という価値観を持っている眞悧に対し、クリスタルは眞悧の価値観を否定する存在なのではないかと思います。
「ピングドラムを手に入れろ。妹の命を救いたければ、己を縛る「運命」から逃れたければ。」とクリスタルは言っていますが、
ピングドラムとは"本当に運命を変えること"ではなく、"考え方自体を変えるということ"ではないかと私は思っています。

"考え方を変える"とはどういうことでしょうか。
私がすごく個人的に考えていることはこの通り

ピングドラムとは「運命を変える特別な魔法」のことではなく、
「抗えない運命のなかでいかに生きるのかということ、そういった考え方そのもののこと」ではないかと考え始めています。

真砂子も百合も、運命日記の片割れを持っていますが、二つに合わさったら運命の乗り換えの呪文が書いてある…といったようなニュアンスで物語が進んできましたが、実はすごく陳腐なことが書いてあるような気がするのです。魔法でもなんでもなく。

桃果は確かに一見すれば魔法が使えるように見えました。
死ぬはずだったうさぎを救ったと言っていましたし、百合の父親のタワーが東京タワーに変わりました。
でも、これって本当にそうなったんでしょうか?桃果は本当に魔法使いだったのでしょうか?
うさぎは元々元気で、東京タワーは元々東京タワーだったのではないでしょうか?
うさぎの件は断言出来ないのですが、東京タワーに関しては、百合の父親への恐怖心が東京タワーをあの男性の像に見せていたのだと思います。文学的な表現をアニメでやっている印象です。
桃果が百合に救いの手を差し伸べたことにより、百合の心に変革が訪れた。
その結果として百合の瞳が映し出す男性像は東京タワーに変わった。
そういう風に考えることも、もしかしたら出来るかも知れません。

桃果は「抗えない最悪な状況から脱するための価値観、つまりそこからいかに生きるのかという考え方」の持ち主であり、
ピングドラムとはそういった価値観や考え方のことなのではないかと思う…というのがこのエントリーで私が書きたかったことです。

「運命そのものを魔法で変えてしまえ」という眞悧派と、
「運命は変えられないけど、考え方次第で世界は変わる」というクリスタル派とで、対立しているのではないか、
ということです。

こちらのブログ↓にも、ピングドラムとは「幸福論」のことではないだろうか、と書かれています。私も共感を感じます。

さめたパスタとぬるいコーラ「初見で理解できなかった部分を理解できた気がする 『ピングドラム』12話感想」
http://d.hatena.ne.jp/samepa/20111003/1317667480

上記ブログで、「幸福とは幸福を探すことである」という幾原監督のブログ記事のタイトルが引用されていますが、この言葉はジュール・ルナールの言葉で、幾原監督の敬愛する寺山修司が本当によく引用していた言葉です。
日本では寧ろ、寺山修司が考えた言葉だと思っている人の方が多いのかも知れません。
寺山修司の書籍に「幸福論」という本もあります。

幸福を探す=自らの置かれた状況に対峙し、どのように幸福にしていくのか、どうすれば幸福になれるのか…
考え、変革していこうとする意志。


ピングドラムとはつまり、そういうことなのではないか、という考えです。

それをクリスタルは高倉兄弟に教えたくて、冠葉の寿命っぽいものと引き換えに、たった一度だけ陽毬を生き返らせた。
でもそれは「初めてのキスみたいなもの」で、そりゃ一度しか使えないでしょうね。クリスタルの目的は、陽毬を生き返らすことじゃなく、その価値観を教えてあげることで、それが一度生き返らせている間に分からなかったらおしまいです。

だからこそ冠葉は陽毬を生き返らせたくてKIGAとつるんでしまうことになったわけですが・・・
(だから、OPで冠葉だけ変な方向へ走っているのでしょう。)

"おかしい物事は変えてもいい。死ぬべき人は殺し、死ぬべきでない人は生き返らせてもいい。何故ならこの世界は間違ってるから"
この考えがKIGAという組織と眞悧の根底の思想であるとします。

でも、もしピングドラムが「運命を受け入れ、それでもいかに生きるか」という幸福論の考えだったとしたら、眞悧の価値観は崩壊します。眞悧の考えの真逆ですから、邪魔な存在です。だから日記を燃やしてくれるかなぁと言ったのではないでしょうか。
(何故「僕にはそれができない」のかは謎ですが。眞悧は「あの世」の人だから物理的に「この世」のものをどうこうできないのでしょうか。"陽毬は「この世」の者じゃないか、その命をどうこうしてるじゃないか"っと言われそうですが、本当に陽毬が「この世」の者かどうかはちょっと怪しいなぁと思っています…。)

ただ、上で長々書いた考えにも矛盾はたくさんあって、
考え方を変えるだけなら桃果が罰を受ける必要はないように思うのに、では何故桃果は罰を受けたのかという理由は説明出来なくなってしまいます。
あくまでこういった考え方も出来るかも、というだけの話で、本当に桃果が魔法が使えて、ピングドラムが本当に「魔法」のことを指している可能性もあるとは思います。
個人的には、魔法で人が生き返るなんて現実的じゃないしちょっとズルイなぁなんて思うから、そんな結末にはならない、と思っていたいのです。なので、こういった考えに至りました。


※以下、11/27 20話を見てからの追記

でも本当はそんなことはどうでもよくて、

ごちゃごちゃ書いているけど、
好きか嫌いか
それだけでいいじゃないかと思います。

私は20話を見て、やっぱり幾原監督のアニメはこうでなくっちゃ!と再認識しました。
私はとても大好きです。

「キスは消費される」「"可愛い"は消費される」

こういったペシミスティックなようでリアルな価値観。

人は、他者との「分かり合い」、「共感性」でしか救われないのかも知れない
と思うことがあります。

共感性による精神的救済というのは、恐らく一般的には文学や映画から得られるものでしょう。
漫画やアニメから感じる場合もありますよね。
そういった共感性によって精神的に救済されたり慰撫する力を、このアニメは持っていると思います。
幾原監督のこういった少しシニカルな視点に共感を覚える人間が、多分世の中には沢山居るんじゃないでしょうか。幾原監督の言葉は、共感性がとても高いと思うのです。
共感性でしか人は救われないかも、と私は上に書きましたが、まさに彼はそんな共感性をアニメの中に漂わせています。ウテナの頃からそうです。少なくとも私にとってはそうでした。

「キスは消費される」
「"可愛い"は消費される」



「これ、私が考えていたことだ」とか
「これ、私が常々思っていたことだ」とか

そういうデジャヴ感を幾原アニメの中から感じ取る人がいるんじゃないでしょうか。

そもそも「何者にもなれない」というコンプレックス自体がそうだと思います。
多くの人が「何者にもなれない」と思いながら生きている。

「きっと何者にもなれないお前達に告げる!」

この言葉でドキリとしてしまう人がたくさんいるはずです。

ただ、共感性で人は精神的救済を感じるかも知れないけれど、精神的進歩には至らないかも知れないですよね。
その、精神的進歩の部分まで描ききるのがウテナの頃からの幾原邦彦監督だ、と私は信じています。

「少女革命ウテナ」では、王子様を探すところから始まって、最終的には王子様と巡り合ってめでたしめでたしのハッピーエンドかと思いきや、「王子様なんて居ないから、自分自身の世界を革命するしかない」という物語でした。
「か弱く王子様を待つ革命される立場の女の子」ではなく、「自分で世界を変え革命する女の子になる」という物語です。

「輪るピングドラム」も凄く似通ったメッセージがある気がしていて、
ウテナが王子様を探していたのと同じように、双子は運命を変える"ピングドラム"とやらを探しています。両者にとって王子様もピングドラムも、自分の夢を叶えてくれる夢のような存在であるという部分で共通しています。

でも結局"運命は変えられないから、自分自身の考えを変革するしかない"という終着点に辿り着くのかも、知れません。
(これは上記に記したような私の個人的な考えに基づいたものなので一つの瑣末な意見と思って頂ければ嬉しいです)
ウテナで、最後は王子様に巡り合いハッピーエンドかと予想させてそうではなかったのと同じように、ピングドラムもピングドラムを入手して陽毬が生き返ってめでたしめでたしではない気がするのです。

最後の終わり方にこそ幾原監督のメッセージ、このアニメの伝えたかったことが明確になるでしょう。

全て分かる時が楽しみでもあり、残念でもあります。

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