読んだ本、読んだ漫画、観た映画などの、ごく個人的な感想を綴るブログです。


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思いの他更新出来る時間があったので、先程まで箇条書きにしていた文章のまとめです。
拍手のレスはこの記事のすぐ前の記事にございます。メッセージを送って下さった方、ありがとうございましたm(_ _)m

以下、13話の個人的な感想です。
12話同様、何度も見てしまいました。眞悧の独白シーンと、苹果ちゃんと多蕗のシーンがお気に入りです。
更にエンディング・・・。あれ、反則ですよね。


冠葉はメリーさんと同じことを繰り返している?

メリーさんが、女神様の灰を盗んで林檎の木を蘇らせたのと同じように、冠葉もまた、裏技的手法を使って陽毬を蘇らせました。
これは、メリーさんと同じことを繰り返しているいわゆる「悪」なのか、それとも、冠葉が対価を払っているっぽいから「問題ない」のでしょうか?
陽毬は死者であるはずなのに、それを無理矢理に裏技的手法をもってねじまげている、ということは忘れてはならないかと思います。我々視聴者や登場人物たちは、陽毬が生き返ることを嬉しく思いますが、陽毬の運命があまりに可哀想でも、冠葉が陽毬をどんなに愛していても、陽毬の死は、それは絶対的な事実ですよね。さすがにそれだけは変えられない。
ピングドラムが「運命を変えてみせよう」というメッセージを孕んだ物語だったとしても(これは私がそういった物語であって欲しいという希望的観測ですが)、さすがに生死を操ってしまえという物語ではないはずです。それは我々人間が出来ない裏技だから。幾原監督はアニメという虚構の中でリアルを描く人だと私は思っています。
この裏技がこのアニメの中でまかり通ってしまうと、陽毬以外にも同情に値する死を迎える人間がこの世にいくらいるのだ、という話になります。物語の中でも語られるように、飢餓や戦争の真っ只中に生まれる人などなど。

だからやっぱり、

「だって、これで罰が終わりじゃ、つまらないでしょ?」
「その通り!」



という台詞があったように、陽毬が再び生き返ったことは、冠葉たちへの罰の一部に過ぎないのかも知れません。(しかし、物語上必ず意味はあるはずです。)
そういった理由から、結局陽毬は死んでしまうのかも知れないと思いました。もちろんまだ分からないし、生きていて欲しいですが…。
陽毬の死をどのように受け入れるのか、陽毬を亡くした上でどのように生きるのか、という話になるのでしょうか。

本当になんとも言えないし分からないのですが、13話は「だんだん"らしく"なってきたなぁ」という感想が一番最初に抱いた感想でした。"らしく"というのはもちろん、幾原監督"らしい"という意味です。
私がこのブログで時折取り上げるような、視覚的特徴にも、勿論幾原監督らしさというのは如実に現れているのですが、12話や13話で語られたような、視聴者への疑問符の投げかけやメッセージにこそ、彼の最大の特徴が現れていると思います。


眞悧の苦悩

幾原監督の話の流れで、眞悧のことを一つ。
今回初めて、眞悧の一人語りが挿入されましたね。

「彼女に出会うまで僕はこの世界に一人だったからね。僕に見える風景は僕以外誰にも見えない。僕が聴こえる音は僕以外誰にも聴こえない。でも、世界中の人の声が聴こえていたんだ。世界中の助けてって声が聴こえていたんだ。本当だよ」



この台詞を聞いて、眞悧は、幾原監督の代弁者のようだと思いました。
恐らく監督はこういった気持ちを味わった側の人間で、思春期は同じような気持ちで煩悶していたのでは無いだろうかと。
ツイッターでどなたかが、眞悧を「ザ・イクニ」と言っていたのを見たのですが、本当に心底私もそう感じました。
このアニメは、こういった煩悶に敏感に反応したり共感したりする人間が一本釣りされるアニメだと思います。私もその一人です。(私もその一人です、と告白することはすごく気持ちが悪いことだと自覚した上で、敢えて書いてしまいますが)


クリスタル=桃果

運命日記に竜宮城が書いてあることと、クリスタルが乙姫っぽい喋り方であることに、どういった共通項があるのだろうと思っていたのですが、クリスタル=桃果だからだったのですね。
では何故竜宮城なのでしょうか。中国で「竜宮城」といえば「他界観の象徴」でもあるようです。平たく言えば竜宮は「あの世」ということでしょうか。
ピングドラムの中の「苹果」が中国読みでpingだったり、黒いペンギンの「KIGAマーク」が「企鵝(中国語でペンギン)」だったりと、所々中国が登場しますが、上記のような竜宮城の他界観については、wikipedia「竜宮」の中の「中国における竜宮伝説」の項目に、詳しく記載があります。
この項目の中に、天の川の記述があるのが興味深いです。深海の竜宮城から河を渡ると天の川に辿り着くという記述です。言わずもがな、天の川は銀河鉄道の夜に登場します。
これを踏まえて色々思うところはあるのですが、憶測に過ぎないので割愛します。

しかし、クリスタル=桃果だとしたら、マリオの帽子に宿っているのは誰なんでしょうか?


苹果の成長

苹果ちゃんの成長が見られた回でしたね。
苹果ちゃんが当初「私は運命って言葉が好き」というモノローグを言っていた時と、今では、言っていることは同じでも、大分意味合いが違ってきています。
運命日記に書いてあることを「運命」と言って生きてきた苹果ちゃんですが、そうではなく、「思わぬことも起こる、それが運命。悲しいことも起こる、それが運命。でも、そこにはきっと意味がある」と、本当の意味で思えるという成長を遂げました。

"自分の身に降りかかった「運命」、それは変えようが無いかも知れない。でも、そこでどう生きるのか。"
そういったメッセージがこの作品には込められているのかも知れません。
この作品のメッセージについては、下部でもう少し詳しく考えてみたいと思います。

苹果ちゃんの話に戻りまして、次回予告で苹果ちゃんが、

「みんな嘘よ。この世界に本当のことなんて一つも無い。明日、あなたがあたしに言う最後の言葉だけが本当なんだ」



と言っていたことが気がかりです。何かと決着を着けようとしているようにも聞えます。
ちなみに、このセリフは、幾原監督が好きな寺山修司の書いた戯曲、「毛皮のマリー」からの引用です。

「世界は何でできてるか考えたことある?水夫さん。表面は大抵、みんなウソでできているのよ…
(中略)
歴史はみんなウソ、去ってゆくものはみんなウソ、あした来る鬼だけが、ホント!」
(戯曲「毛皮のマリー」p.154)



上記の台詞は有名な台詞ではありますが、寺山修司が大好きな私としては、突然の寺山の引用に大変驚愕致しました。
「毛皮のマリー」という物語自体は、男娼のマリーが欣也という美少年を育てるうち、相互に愛憎の念が氾濫し、それでも一緒に生きていくしかない、というドロドロした悲しいお話なので、ピングドラムとは大分気色が違います。台詞を引用するに留まるはずですですが、興味がある方はこちらに以前このブログで書いた記事があります→[レビュー]毛皮のマリー/作:寺山修司、演出:美輪明宏


この作品のテーマとメッセージを改めて考える

12話、13話と物語の折り返し部分を見てきて、少しずつこの作品のメッセージや、監督の伝えたいことが明らかになってきたように思います。それでも、ある一方では謎は深まるばかりですし、分かりきったことは言えないのですが、自分なりにこの作品のテーマとは何なのか、改めて考えてみました。

まず、眞悧が言っていたセリフ。

「君は、『運命』って言葉をどう思う?『運命』は実在する概念だと思う?つまり、人の生涯は、生まれた時から予め決められていて、決してそれに抗うことは出来ない。そういうルールがあるってことを信じる?

何故高倉陽毬の命を救ったのか?何故だろうねぇ。まだ秘密だよ。追々ね。
なんだよ、怒るなよ。
じゃあこう答えようか。僕はね、『運命』っていう概念が人の世界に存在するのか、そのルールが人の生涯を支配しているかどうか、それを確認したいんだ。君にもそれを確認して欲しいんだ。僕と一緒に。
そう、二人でピングドラムを探すのさ。
そいつが本当に存在するかどうか。どう?悪い話じゃないだろう。

じゃあ引き続き彼女の傍に居てあげてくれ。そして、君は僕と同じ風景を見るんだ。あの兄弟と妹の行く末を、一緒に確認しよう。
じゃあね、僕の恋人。世界でたった一人の、僕と同じ風景を見ることができる、僕の恋人。また、あの世界で再会しよう」



「『運命』という概念が人の世界に存在するのか、そのルールが人の生涯を支配しているのか」ということが、まず13話で明確に語られていますね。これは、この作品のテーマと言っても良いでしょう。

では、そのテーマから伝えたいことは何なのでしょうか。

「全てがもし決められていたら、僕らはどうしてもがくのだろう」
「みんな、みんな塗りつぶせ」
「悲しいことや辛いことにも、きっと意味はある」



という歌詞や台詞。これは紛れもなくメッセージです。

私は以前、この作品には「運命を変えてみせる」というメッセージが込められているかも知れない、といったことを書きました。この書き方では少し語弊があるかも知れないので、捕捉を入れた上で訂正します。

先程上にも似たことを書きましたが、そこに補足を入れると、

"自分の身に降りかかった事実、それは変えようが無いかも知れない。それが「運命」と言ってしまえばそれまでだ。でも、何が起こったとしても、そこでどう生きるのか。「運命」は、自らの手で切り開くことが出来る。その可能性を持っている。"

そういったメッセージがこの作品には込められているのかも知れない、とごく個人的に思っています。

この作品には、サリン事件などの、あらゆるモチーフが登場します。
それらはなかなか衝撃的な素材ではありますが、その素材を引用したという奇抜さばかりに注目してしまうと、どんな作品を作ろうとしているのか往々にして分からなくなったり、「その素材苦手かも」なんて思う人も出てくるかも知れません。
でも、重要なのは監督が何を伝えようとしているのか、どんなものを作ろうとしているのか、という部分だと思っています。
監督が何を作ろうとしているのか。それは、素材を見せびらかすことじゃなくて、その素材で何をしようとしているのかということです。
我々も、素材が目的だったのではなく、その素材から出来る作品がどんなものなのか知ることが目的だったはずです。その目的は、視聴者側がぶれてはいけないところだと改めて感じました。もっと、俯瞰で見なくてはいけないと、自分に。

そういえば、幾原監督のインタビューが載っているという、「季刊S 2011年10月号」「オトナアニメVol.22」「オトナアニメディア 2011年11月号」の3つを購入しました。明日届くので楽しみです。
この作品のテーマやメッセージなんかは、私なぞが100こういう記事を書いたり考えたところで、監督の1つの言葉こそが真実ですから、是非早く読みたいと思っています。
ただ、現時点で私が考えていることを、恥ずかしげもなく晒すとしたら、こんな感じです、ということですね。

インタビューを読んだ後に、また追記するかも知れませんが、ひとまず今回は以上まで。


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