読んだ本、読んだ漫画、観た映画などの、ごく個人的な感想を綴るブログです。


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まず、第一の感想は、「カレー」と「華麗」をかけるの、幾原監督好きだな!ってところですよね。
ウテナでは8話に「カレーなるハイトリップ」という物語があり、七実様がインドに行くっていうギャグ回があったのですけれども、それを彷彿とさせました。
更に、あのシリアスであるべきはずのクリスタル変身後の異世界の中で、突然牛の着ぐるみを着るシュールな感じにも、懐かしさを感じます。

それはともかく、またもや「海のイメージ」から始まった3話。
何故執拗に海のイメージが繰り返されるのでしょうか?ペンギンと関係ありそうに見えて、また違うのでしょうか。
苹果ちゃんの日記の裏には、やはり「竜宮城」のイメージと繋がるカメのイラストが描かれていました。

本日は3話の記事を見ていて面白い記事を見つけましたので、まずはそれについてから。


幾原監督の根底にあるもの

妄想詩人の手記 輪るピングドラム 第3話「そして華麗に私を食べて…」
http://coffeemonster.at.webry.info/201107/article_9.html

ウテナに於いてもピングドラムに於いても、大人になることへの畏怖が根底にあるという指摘。
私も常々幾原監督からはこういった畏怖、フィアーの表現から、個人的カタルシスを感じていたから、そういうところが私は好きだなんて思っていたけれど、この記事の「幾原監督にとって永遠に付きまとう問題意識であり、かつ創作へのもっとも重要な原動力のひとつなのではないか」というのが、まさしく個人的に共感を覚える部分を言語化して下さった感じです。

こういった思春期的畏怖の念を裏付けするにあたって、幾原邦彦監督は「ALL ABOUT 渚カヲル」という書籍の中でこのように言っています。

僕は14、15歳の時には、本当に絶望していて人生真っ暗だと思っていたんだよ。(中略)今はさ、負け組のほうにも注目が集まっているというか、ダメになる自由もあるという感じがするけど、そのころは一回でも負けたらその先は闇でしかないように感じられた。70年代まで安保闘争があったわけだけど、それも終わって「ああ、やっぱり世界を革命するなんてことはできないんだな」って空気が蔓延してたんだ。だから自分は20歳までには死ぬんだろうと思っていたし、それ以降の人生なんてオマケみたいなものだって思っている――そんな話を(庵野秀明監督と)したんだ。
『ALL ABOUT 渚カヲル』(p.54)


こういう思春期的煩悶は、現代に於いては「中ニ病」という便利な言葉があるから、そう言いたがる人もいるとは思うし実際に中学二年生的なんだろうけど、寧ろそういった煩悶って個人的にはサリンジャー的煩悶と呼称した方が分かりやすい、というのは余談なんですが――でも幾原監督がツイッター始めた頃から私はずっと見てて、彼がサリンジャーに影響受けてるのは確かなので、興味ある方は読んでみて欲しいです。私も大好きなので。

両親が居ないとか片親だとか、アニメにはありがちな設定だからなんとなく辟易することはあるのだけれど、幾原監督は実際に片親育ちだからそういうの描かずには居られないんだと思うし、思春期の自己の確立の過程に於いてそれはきっと大きな問題なのだ。だからよく色んなドラマやアニメでドラマチックに描かれすぎちゃったりするんだろうけど、輪るピングドラムに於いては、ただのお涙頂戴だとか「可哀想な僕達」には終わらないと私は思っている。だって幾原監督ってすごくイノセントな代わりにすごくひねくれてるんだもの、普通に落とし込まれるわけがないじゃないか。


苹果のキーパーソンぶり

苹果は自分の書いた未来日記の通りに行動しようとしている。
運命を変えようとするパワーがあるわけです。
私の中での解釈は、(⇒前の記事にも書いたけれど)ピングドラムとは物理的なものではなくその「運命を変えようとする何かしらの力」のことだと思っているから、だからクリスタルはピングドラムを持っているのは苹果だと言ったのではないかな。
それが運命を変えるという生存戦略であり、この作品のテーマなんだと私は思っています。
だけどまだまだ予想は良さそうな意味で裏切られる予感に満ちています。

自分のカレーに摩り替えるほどの行動力はすごいですね、それが自分の未来日記に基づいているのですから。
異性(時には同性)に対する怖いほどの執着心もウテナの頃から繰り返されてきたテーマです。

今回の3話で私が好きなのは、食パンの上にチョコレートでラクガキして、そこに母親が登場してべしゃってするところ。
この、食パンが半分に折れて「べしゃっ」て感じがそのまま苹果ちゃんの精神を具体化した感じがあってお気に入り。
そういえば、電車で冠葉が苹果ちゃんの友達と会話した時に、冠葉の後ろがハゲのおじさんばかりだったシーンがあったけれど、あれも同じこと。本当にハゲのおじさんばかりが後ろに居たとは限らない。「そんな風に見えた、それほど冠葉がカッコ良かった」っていう表現なのだ。
これって文学では当たり前に描かれることだから、面白いなぁなんて思いながら見てました。
文学に於いて登場人物の精神と周りの天候や様子がリンクするのと同じようなことですよね。
例えばゲーテの⇒「若きウェルテルの悩み」なんかは、そういう表現が死ぬほど出てきます。


今回は短いですが以上。また思い出したこととか書きたいことがあったら追記します。

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