読んだ本、読んだ漫画、観た映画などの、ごく個人的な感想を綴るブログです。


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以前も「ライ麦畑でつかまえて」について記事を書いたのですが、主に私の主観的感想の記事だった為、今回はもう少し掘り下げて、文学的観点から「ライ麦畑でつかまえて」の持つあらゆる暗喩的表現などを考えてみたいと思います。

以前から何度も主張しているように、「ライ麦畑でつかまえて」は私にとってのバイブルです。
同じように思っている人は世界中に何人もいることでしょうから、私が今更威張ってこんな記事書いたところで閉口ものなんですけれど、自分のためにも一度まとめておきたいなと思いましたので記事を書いてみました。
あと友人に「おすすめの本を貸して」と言われて、先日この本の野崎訳を差し上げたので、この記事は自分とその友人に捧げます。あ、以前寺山修司がどこかで「何かしらに捧げるって憧れるけど恥ずかしい」みたいなこと書いてたなぁ。というわけで恥ずかしいんですけど、ちなみにこの本は「母へ」捧げられている本です。でも、この本においてはとてもしっくりくる感じ。
友人に野崎訳をあげたので、今手元に野崎孝訳の本がありません。そのため、以下の引用部分は手元にある村上春樹訳からの抜粋となります。でも、前の記事にも書いたけど、やっぱり私は野崎孝訳の方が好き。


★話のあらすじと魅力

周りの何もかもが「インチキ」に見えるホールデン少年。先生も大人もルームメイトも彼にとっては全部がインチキです。
学校を退学になり、絶望的な気分で3日間ニューヨークの町を彷徨います。大人の真似事をして、カッコつけては失敗してボロボロになっていく。しかし最後には妹のフィービーに救われるという、ただそれだけの話。

しかし、この作品のもつ温かさと共感しやすい思春期的煩悶は、サリンジャーにしか描けない鮮度と精度、リアリティーを持っていると私は思っています。
周囲の人間に対するホールデン少年の目は、辛辣で鋭くユーモアに溢れているため、普通に読んでも笑えて面白いので、ただそれだけで好きだと言う人もいるだろうし、確かにそれだけで読んでも良い本に違いはないのですが、この本に散りばめられた暗喩表現を考えながら読めば、よりこの作品の素晴らしさを多くの人と共有できることと思います。


キャッチャーはホールデンではなく妹のフィービーである

まずこの物語の一番滑稽であり最も魅力的な点を一言で言えば、
「小さな子供たちを救うキャッチャーになりたい」と語るホールデン少年が、
その小さな子供(妹のフィービー)にキャッチされる、というところです。


ここでいう「キャッチ」とは勿論、物理的キャッチではありません。
精神的救済という意味での「キャッチ」です。

「ライ麦畑の崖から落ちそうな子供たちを捕まえるキャッチャーになりたい」と語るホールデン少年は、そんな自分を大人みたいなものだと思っています。自分より弱い子供という存在に対するイノセントな愛を持っています。
思春期って自分より立場の弱い人間に対しては時に物凄く純粋な気持ちを持てたりする。
何故なら子供たちは「インチキ」じゃなくて「正直」だから。
特に小さな妹や、死んだアリーという弟に対してはとても深い愛情を持っているホールデンがとても可愛いです。

そんな自分よりも弱い子供達を救いたいと願っているのに、ニューヨークを彷徨いボロボロになったホールデンを救うのはその弱い子供であるはずの、自分が救いたいと願っているはずの妹のフィービーなのです。
この滑稽さが、笑えて泣けちゃうこの本の尤も魅力的たる所以ではないでしょうか。
もう、その滑稽な温かみには、こっちが「まいった」というしかありません。(ホールデンの口癖)

「ライ麦畑でつかまえて」の原題は「The Catcher in the Rye」です。
直訳すれば「ライ麦畑の捕手(キャッチャー)」。
それを、「ライ麦畑でつかまえて」と訳した野崎孝。
そこに、意味があると考えるのはとても楽しいし和訳の醍醐味かも知れません。


赤いハンチング

では、妹のフィービーに救われた部分というのをもっと具体的に考えていきます。

ホールデン少年は、1ドルで買った赤いハンチング帽をかぶっていますね。しかも「キャッチャー」のように、ツバを後ろにしてかぶっています。これは勿論、「子供たちを救うライ麦畑のキャッチャーになりたい」から。
野球のキャチャーを意識しているわけです。

ホールデンはこの赤い帽子について、友人のアックリーに「それは鹿撃ち帽なんだぞ」と言われ、次のように返しています。

「違いますね」、僕は帽子を脱いで、眺めた。それに狙いを合わせるみたいに片目を軽くつぶった。「こいつは人間撃ち帽なんだ」と僕は言った。「僕はこの帽子をかぶって人間を撃つのさ」
(村上春樹訳 p.42)


そして、このへんてこな帽子を妹のフィービーにあげるのです。
こうすることによって、キャッチャーはホールデンではなく、フィービーになったことを暗示しています。

でも最後の回転木馬のシーンでは、フィービーに帽子をかぶらされます。
そのシーンがこの物語の一番感動的なシーンです。

それから出し抜けに彼女は僕にキスをした。そして手を前に差し出した。「雨が降ってる。雨が降り出したわ」
「知ってるよ」
 それからフィービーが何をしたと思う?ほんとに参っちゃったんだけどさ、僕のコートのポケットに手を突っ込んで、(1)赤いハンティング帽を取り出して、それを僕の頭にかぶせたんだよ。
「君はいらないのかい?」と僕は言った。
「少しのあいだ貸しといてあげる」
「わかった。でもほら、急がなくちゃ。もう回りだすぞ。そうしたらお気に入りの馬に乗れなくなっちまうよ」
 それでもフィービーはぐずぐずしていた。
 (2)「ねえ、さっき言ったことは本当?どこにも行っちゃったりしないってこと。このあと本当におうちに帰る?」と彼女は僕に尋ねた。
 「うん」と僕は言った。本気でそう言ったんだ。でまかせを言ったわけじゃない。実際そのあとうちに帰ったわけだしさ。「さあ、急がなくちゃ」と僕は言った。「もう動き始めるぞ」
 フィービーは走っていってチケットを買い、ぎりぎりのところで台に飛び乗った。それからぐるっと歩いてまわって、お気に入りの馬をみつけ、それに乗った。彼女は手を振り、僕は手を振り返した。
 (3)それからもう正気じゃないみたいにどっと雨が降り出したんだ。それこそバケツを思い切りひっくり返したみたいにさ。いや、文字どおりの話だよ。子どもたちの親だとか、そこにいた誰もかもが、ずぶ濡れにならないために回転木馬の屋根の下に駆け込んだ。でも僕はけっこう長いあいだ、そのままベンチに座っていた。おかげでぐしょ濡れになっちまったよ。とくに首とかズボンとかがね。ハンティング帽をかぶっていたおかげで、被害はそれなりに少なくてすんだわけだけど、それにしても濡れ鼠になったことはたしかだったね。でもかまやしない。フィービーがぐるぐる回り続けているのを見ているとき、なんだかやみくもに幸福な気持ちになってきたんだよ。あやうく大声をあげて泣き出してしまうところだった。僕はもう掛け値なしにハッピーな気分だったんだよ。嘘いつわりなくね。どうしてだろう、そのへんはわからないな。ブルーのコートを着て(4)ぐるぐる回り続けているフィービーの姿がやけに心に浸みた、というだけのことかもしれない。いやまったく、君にも一目見せたかったよ。
(村上春樹訳 p.360)


(1)赤いハンティング帽を取り出して、それを僕の頭にかぶせた
ここでポイントになってくるのは、「どのようにかぶせたのか」という点です。
これは二手に意見が分かれるみたいで、「いつもホールデンがかぶっているように、キャッチャーのように後ろ向きにかぶせたのだ」説と、「そうではなく、前向きに普通にかぶせたのだ」という説があるようです。
サリンジャー亡き今、それは永久に解けない謎であるでしょう。
前者の場合は、キャッチャーはフィービーからホールデンに戻っているし、
後者の場合は、「前向きにかぶせられる=キャッチャーになんかならなくて良いという妹からの暗示である」と解釈することも可能です。(これが正しいかどうかはもちろん誰にも分かりません)
個人的にはそう思いたいし、だからこそホールデンはこのシーンで救われたんじゃないかなと思っています。
つまり、(2)「ねえ、さっき言ったことは本当?どこにも行っちゃったりしないってこと。このあと本当におうちに帰る?」というように、西部へ行こうとしていたホールデンは、妹のフィービーにキャッチされるわけです。

(3)それからもう正気じゃないみたいにどっと雨が降り出したんだ。それこそバケツを思い切りひっくり返したみたいにさ。
弟が死んだ時も雨が降っていました。でもそのシーンの雨とこのシーンでの雨は違うと思う。
ホールデンの心が浄化されていく様子なのではないでしょうか。
だから村上春樹もあえて、「心に浸みた」と表現しています。しかも「浸みた」を強調しています。
心にしみた、というのは普通であれば「沁みた」という漢字をあてるのが一般的だけど、ここでは「浸みた」の方が適切だったのだと思います。

(4)ぐるぐる回り続けているフィービーの姿がやけに心に浸みた
ホールデンが幼い頃から存在している不変の回転木馬、それに乗って同じところをぐるぐる回り続けているフィービー、それは不変のようであり、不変ではない、でもとびっきり美しい光景。そんな姿に心が洗われるというシーン。

ホールデンはそれより前にこう言っています。

ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたらいちばんいいんだよ。そういうのが不可能だって、よくわかってはいるんだけど、まあ残念なことではあるよね。
(村上春樹訳 p.206)


不変なものへの憧れと、そうはいかないっていう残念さと、でも不変らしく見えるものの美しさとが色々混ざり合って、でもそれで良いんじゃないか、っていう救いを、ホールデンは妹から見出したのだ、と考えることが出来るのかも。


キャッチャーミット

弟のアリーの野球ミットについて作文を書くシーンがある。
この野球ミットも、キャッチャーの使うアイテムですね。
死んだ弟の野球ミットには詩が書いてあって、それについて友人のストラドレイターのための作文を代筆してあげるんだけど、ストラドレイターにはバカにされる。
この「ライ麦畑でつかまえて」の世界の中では、キャッチャーはことごとく小さな子供なのです。
だから、ホールデンにとってのキャッチャーは妹であり、死んだ弟でもある、ということでしょう。


他にも繰り返される象徴的な事柄

「あのさ、君のためにレコードを一枚買ってきたんだ。でも途中で落っことして粉々になっちまった」。そしてコートのポケットからレコードのかけらを出して見せた。「わりに酔っぱらってたもんだからさ」
 「そのかけらをちょうだい」とフィービーは言った。「しまっておくから」。彼女は僕の手の中にあるかけらをとって、ナイトテーブルの引き出しに入れた。そういうのって参っちゃうよね。
(村上春樹訳 p.276)


妹のために買ったレコードが粉々に割れてしまうシーンが、最高に笑えて最高に泣けてしまう。私は大好きなシーンです。
年上の女性にからかわれたり、娼婦を買おうとして騙されたり、ガールフレンドと喧嘩して散々、踏んだり蹴ったりなのに、純粋な妹への気持ちで買ったレコードすらも粉々に砕けてしまうんだから、この上ない不幸である。
この様子がものすごく滑稽でものすごく笑えてものすごく切ない。そしてこのレコードこそがホールデンの心。
でも、「そのかけらをちょうだい」とフィービーはきたもんだから、そりゃホールデンは「そういうのって参っちゃうよね」ってことになるのでしょう。

他にもアヒルの行く先を憂慮しているホールデンは、自分の行く先の不明瞭さとアヒルとを重ね合わせているし、信頼するミスタ・アントリーニ先生には、「君が今はまりこんでいる落下は、ちょっと普通ではない種類の落下だと思う」と言われてしまう。
ライ麦畑の崖から落ちそうになる子供たちを救いたいのに、もう君は落ちてるよ、と言われているのだ。


思春期の人間の辛辣さ

そもそも普通に読んでも面白いライ麦畑。
私が面白いなとか魅力的だなと思う部分はこんなところ。

ほしかったのはレース用のシューズなのに、送ってきたのはホッケー用のやつだった。でもどっちにしても、けっこう哀しい気持ちになった。誰かに何かをプレゼントされると、ほぼ間違いなく最後には哀しい気持ちになっちゃうんだよね。
(村上春樹訳 p.91)


僕は彼女をじっくりと眺めた。彼女はぜんぜん間抜けには見えなかった。この人なら、自分の息子がどれくらい悪質なやつか、 ある程度わかっててもいいはずなのになと思った。でもまあ、そういうものでもないんだろうね。相手はやっぱりなんといっても母親なわけだからね。そして母親ってのはさ、みんなちょっとずつ正気を失ってるものなんだよ。
(村上春樹訳 p.97)


相手の女の子がフットボールの試合になんて興味を持ってないことは一目瞭然なんだよ。でもその子は男に輪をかけて変ちくりんな顔をしているもんだから、相手の話を聞いているしかないわけだ。真剣に醜い女の子って、人生厳しいんだよ。そういう子のことを気の毒だってたまに僕は思うんだ。そういう女の子たちを直視できないことさえある。
(村上春樹訳 p.146)


問題はさ、女の子っていうのは、相手の男がいったん気に入ったら、そいつがどんな下らないやつだったとしとも、「あの人にはコンプレックスがあるだけなのよ」で片づけちゃうし、いったん気にくわないとなると、どんなにいいやつであっても、またどれほど大型のコンプレックスを抱えていたとしても、「あの人はうぬぼれ屋なんだから」となっちまうわけだ。頭のいい女の子だって例外じゃない。
(村上春樹訳 p.230)


でもさ、なにも悪いやつだけが人を落ち込ませるってものでもないんだな。いいやつにだって、そういうことがじゅうぶんできるわけだよ。
(村上春樹訳 p.285)



まとめ

自分に身に覚えのある潔癖感、辛辣さ、大人になることへの畏怖、インチキなものに対する猜疑心、
「これ、自分の事を書かれてるんじゃないの?」と思った人間がきっと世界中にたくさんいる、そんな物語です。
逆に、この物語に共感しない人や、「自分のことを書かれてる」とは感じない人は、素直にものすごく羨ましいかも。

この物語にはまだまだ色んな解釈があって、私は未読だけど、「ライ麦畑のミステリー」/竹内康浩って本とか、解読書がものすごく沢山出ています。
私は、死ぬまでには読みたいなと思うけど、今は全ての謎を解き明かしたくない…という気持ちもありますので、追々読んで行きたいと思っています。

ただただこの物語に私は精神的救済(キャッチ)され慰撫されました。
そしてそんなキャッチされた人間がこの世界に何人いることでしょうか。
もし自分に子供が産まれたらこれは絶対に読んでもらいたい!という、そんな本です。

サリンジャーは本当、こういう思春期的煩悶の描写がすごく上手くて、彼の作品の共通項でもあります。
「フラニーとゾーイー」や「ナイン・ストーリーズ」についても今後記事を書きたいです。

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