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村上春樹氏が、カタルーニャ国際賞授賞式に於いて、
日本の原発についてのスピーチを行いました。

その記事の全文が以下です。

▼村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
▼村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html

私は、このスピーチを読んでとても魂を揺さぶられました。
そして、私も常々感じていたことを、バルセロナから声高に発してくれた村上春樹氏に拍手を送りたい気持ちです。

まず、村上氏は、原発を推進してきた人々や企業の、実態について述べています。

なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。


ここで重要なのは、村上氏は「我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。」と、「過ち」と表現していることです。これは、人のせいにした言葉ではありません。
村上氏は、つまりこのスピーチに於いて、「原発は東京電力の過ちではなく、我々日本人全ての過ちである」ということを主張しているわけです。

しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。


私は、原発について語る人々の全ての声を聞いたわけではありませんから、一概に以下のようには述べられません。
しかし「あまりにも東京電力の所為にしすぎている人が多すぎる」と思っていました。
メディアでも激しい東京電力批判が毎日のように行われています。
中には「全部ウソだった」という歌を歌っている人も居ます。それを、「よくぞ歌った」と賛同する人々が居ます。
(もちろん、それを批判する人たちや、疑問に思っている人たちもたくさん居ます。)

確かに、東京電力は「安全である」という主張をしてきました。
それは、「今回の津波によって、それがウソだった」と判明したわけではありません。
我々が、ただ単純に、"原発の安全性について、疑問を持たないまま、行動も起さないまま、知ろうともしないまま、流されてきたから"このようになっただけなのです。
よく考えれば、安全なわけがないのは誰だって分かるはずなのです。だから、「ウソだった」のとは、ちょっと違うのではないかなと思います。
私も、もちろんその流されてきた人間のうちの一人です。今回の事故がなければ、私は今でも原発に対して、疑問を持つことは無かったかも知れません。きっと、無かったでしょう。

広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

(中略)

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。


私は村上氏のこの主張に、全面的に同意です。
このスピーチを、是非とも日本、しいては世界中の人々にぜひ読んで頂きたい。

但し一つだけ、そういった考えの自分に対して、疑問もあるのです。
「もし自分の家族が福島に住んでいて、避難生活を余儀なくされていても、我々の責任だと心から思うことが出来るのだろうか?どうしたって、東京電力への憎しみを抑えることが出来ないのではないか?」
という疑問です。



余談ですが、スピーチの(上)に於いて、
「桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまう」という言葉があります。
儚いものの例えとして、蛍を引用するのは珍しいことではないと思いますが、
この一文はまるで、「ノルウェイの森」の直子のことのようだと思いました。そして、「蛍」という村上氏の短編を思い出しました。
"儚い直子という存在の例えとして、「ノルウェイの森」の中では「蛍」が登場するのだ"ということを、再認識できるような一文でした。

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