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毛皮のマリー [DVD]毛皮のマリー [DVD]
(2011/05/04)
脚本:寺山修司
演出:美輪明宏
主演:美輪明宏、及川光博他

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感想:★★★★★

2001年の舞台「毛皮のマリー」が、満を持して待望のDVD化された。
寺山修司が、美輪明宏のために書き下ろした舞台である。
しかも、DVD発売日は、偶然なのか意図したものなのか、寺山の命日5月4日だ。

このジャケットからもわかるように、最後に美輪明宏演じるマリーが、聖母マリアになったことによって、
私はこの演出の意図について、毛皮のマリーという作品について、当初頭を悩ますことになってしまった。

寺山の脚本には、マリーが聖母マリアであるといったようなことは書かれていない。
ただ、「最後の晩餐」は寺山の意図した演出である。

ラストシーンをキリストと聖母マリアの美しいシーンにしたのは、美輪明宏の演出ということでいいのだろうか。
(何か昔、美輪さんがこの演出について、紙面なりパンフレットなりで語っていたものを持っていた気がするのだが、実家にあるため確認することが出来ない。)

まず、最初に違和感を感じたこと、それは私の中でマリーは、聖母マリアとはかけ離れた存在であることだ。
マリーはマリアになり得ない、我が子への愛憎によって欣也を閉じ込める男娼でしかない。最後まで女の子に仕立て上げようとしてるんだから。故にこの舞台は悲しい、そのどうしようもなさが胸に残る作品だと思うのだが、何故「聖母」マリアなんだろうか?
私がこの演出の意図と、毛皮のマリーという作品について汲み取りきれていないものがあって、でも美輪さんには別のものが見えていて、だからこういった演出にした、ということなのだろうか?

・・・などなど、頭を悩ませていた。

しかし、色々と探っていくうちに、これは、「あえて聖母マリアとキリスト」にしているのではないか、という考えになった。
マリーが本物の愛をもって聖母マリアになったのではなく、皮肉的演出なのではないかと。
故にこの作品のどうしようもない悲しさに追い討ちをかける意図があるのではないかと。

聖母マリアはセックスなしに処女のままキリストを妊娠する。美しい聖なる母親のイメージだ。
マリーも同じくセックスなしに(男なので)息子を授かる。(それは卑怯な手によって。)

この、一人で息子を授かるというところがマリアとマリーの共通項で、それでも全然違う愛を息子に注ぐ。
その対象性を強調するためにマリーは聖母マリアとなり、欣也を閉じ込めたまま生きていくという皮肉の演出なのだろうか、と考えた。

だから、この、一見美しいラストシーンは、本当は全然美しくないのではないかな。
悲しい悲しい親子の出口のない愛憎の演出なのではないかな。
だから、美輪明宏のマリーは微笑んでいるけど、及川光博の欣也は悲しげな表情なんじゃないだろうか。
そんな風に思った。

何度か観て、もう少し考えてみたいなとは思う。
私が個人的に持った感想としては、マリーはマリアとかけ離れた存在ゆえに、
皮肉な演出としてのマリア様なのではないだろうかとしか、考えられなかった。
本物のマリア様とは見られなかったです。美輪さんの意図はどちらの意味だったのだろう。

マリアの意味についての考察はここまでにして、作品の本質的な部分について。

そもそもこの「毛皮のマリー」という作品は、寺山がまるで自分のことを書いたかのような舞台脚本である。

毛皮のマリーは男娼である。
かつて自分を愚弄した憎い女から生まれてきた男の子供を引き取り、18歳まで育て上げた。
そして、その子を女の子にしようと企んでいるのだ。
その子供こそ、及川光博演じる美少年・欣也である。

マリーは欣也を家から一歩も出さず、部屋に閉じ込めて育てる。
欣也はマリーが家に放した蝶を追い、標本にすることを楽しみに生活している。それ以外は許されない、束縛された生活を続ける。
その蝶はまるで欣也自身のことようだ。マリーに家に閉じ込められ、まるで標本やお人形のように張り付けにされている。

その生活の中に、一人の少女が現れる。紋白という、外の世界の女の子(これもオカマなんだけど)だ。
紋白は、欣也を外の世界へ連れ出そうとする。

このストーリーを寺山修司に置き換えると、
欣也=寺山修司、マリー=寺山はつ、紋白=九條今日子と考えることが出来る。

自身の作品の中で度々母殺しや母への憎しみを綴ってきた寺山修司は、
この「毛皮のマリー」という舞台にも如実にその母への愛憎を反映させている。

束縛する母マリー、そこから逃げ出したい欣也、私は、寺山が何度も何度も母との愛憎をテーマにしていることに、なんとも言えない気持ちになってしまうのだ。
この作品もまた、寺山修司を理解する上で外せない作品である。

最後のかくれんぼのシーンは、脚本にはないシーンで、確か美輪が付け足したシーンだ。
「もういいよ」が返ってこないまま幕となる。
まるで寺山が演出したかのようで、とても良かった。

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