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田園に死す 【低価格再発売】 [DVD]田園に死す 【低価格再発売】 [DVD]
(2008/04/23)
菅貫太郎、高野浩幸 他

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感想:★★★★★

1974年公開、青森恐山を舞台にした、寺山の少年時代と現在を描いた自伝的映画。

このブログでは幾度となく書いていますが、私は寺山修司を崇拝しています。
それは、彼の飛び抜けた発想や言葉、短歌の数々に魅了されて止まないからです。
そしてあれだけの素晴らしい短歌を文学者として発表しつつも、同時にこれだけの映画を撮ってしまう。
もう二度と、こんな人は現れないのではないでしょうか。

私はこの映画を15歳で観ました。思春期の心に深く突き刺さり、それ以来これを超える映画には出会ったことがありません。
このDVDは墓場まで持っていきます。
実際に、私が死んだらこの映画を棺に入れて欲しいと思っているぐらいです。

寺山修司をサブカルチャーの表現者としての観点から見る人が沢山居て、実際に私の周りにも美大生やデザイン系の専門に行ってる子とかは、この映画や寺山修司に興味を持っている人は多かったです。

確かにアートとして見てもすごくアバンギャルドで衝撃的な作品だと思います。でも私の場合は共感をして癒されたり、カタルシスを感じるためにこの映画を観ます。

寺山特有の「見世物小屋(犬神サーカス団)」、カラーフィルターを使ったカラフルでおどろおどろしい映像、白塗りの人々の登場する衝撃的な映像ばかりに注目がいきがちな映画ですが、
これは寺山が自己の少年期からの内面を見つめ、それを映画としてエンタテイメントに昇華したところこそ評価されるべき映画だと私は思っています。
なので、この映画の外側に散りばめられたアヴァンギャルドな部分よりも、この映画に描かれた寺山の内面性や本質的な部分にこそ目を向けるべきです。

15歳思春期真っ只中で初見した私にとっては、「母殺し」というテーマがとても魅力的で衝撃的でした。
架空の世界で架空性(嘘)を強調しながら母を殺そうとして失敗する主人公(寺山修司)。

「たかが映画の中でさえ、たった一人の母親も殺せない私自身とは、一体誰なのだ」


映画の中には、主人公の心の象徴として、時計が沢山登場します。
白塗りの人々は、自分の時計を持って居ない人。閉塞された青森という田舎の時間に迎合して生きている人々。(と私は思っている。)
(だから、寺山が好きだからって安易に白塗りにするなって思ってしまう。意味分かってやってるのかな、とか思ってしまう。少なからずファッション性としての解釈しか為されていないのではないか。しかし必ずそこに寺山の意図した意味はあるはずだ。)

我が子を愛し家に閉じ込めておきたい母親と、汽車に乗って家出を夢見る15歳の主人公。

その主人公がサーカスで、空気女にみんな一人一人時計を持っていることを聞かされて返したセリフ

「だけどみんなが時計持ってたら喧嘩になるでしょう。だって、誰のを信用すればいいかわからないもん」


人それぞれの心や意思(つまり自分の時間)があるのが当たり前だとしたら、どれが正しいと信用すればいいかわからないし、どれを正しいとも言えないということだ。

更に主人公を束縛する母親と、
そんな母親から逃げ出したい主人公のやり取り

母「時間はねぇ、こうやって大きい時計に入れて、家の柱に掛けとくのが一番良いんだよ。それを腕時計なんかに入れて外に持ち出そうなんてとんでもない考えだよ。考えてもご覧よ。私達は親子たった二人しか居ないんだよ。その二人が別々の時計を持つようになったらどうなると思ってるの」

主人公「だけどあの時計壊れてるじゃないか」

母「いいえ、あれはちゃんと合ってます。あれが我が家の時計なんです」


母親は強情です。
この母は、寺山の実の母「寺山ハツ」そのものです。
ハツと修司は戦争で父を亡くし、それ以来母一人子一人で生活してきました。
ハツは、幼い修司を溺愛し、束縛する反面、軽蔑されていた米軍基地へ修司を育てるために、修司を親戚へ一人預け出稼ぎに行き、修司はいつも寂しい思いをしていました。
こうした少年時代の体験が、寺山を成人した後までもひきずっています。
必要以上に束縛されたり突き放されたりした少年の心に、ずっと傷が残っていたのです。
この映画を見る上で、寺山修司のその体験を語ることは必要不可欠となります。

そして、主人公が家出をする直前の

「気に障ることがあったら、何でも言いなさいね。私達は二人っきりなんだから」


というシーンでは、柱時計が柱に紐でぐるぐるに括り付けられています。

とにかく、強烈なまでに滲み出る母親の束縛愛と寺山の母親への愛憎。

現在の自分と、15歳の自分との対話でこんなやりとりがあります。

「本当は俺、母ちゃんを捨てようと思ったことがあるんだよ」
「思ったさ。俺だって何遍も思った。殺そうと思ったことだってある」
「本当?いつ頃?」
「今だってそうさ。毎日思ってる」


「一人の男が初めて汽車に乗るためには、その男の母親の死体が必要なのだ」


しかし母親を殺す事は出来ないまま、新宿の家で母と共にご飯を食べている現在の寺山。
故郷を捨て一人で汽車に乗るはずが、母親と共に東京で暮らしているわけです。殺すこともできないまま。

寺山が自らを語る上で、母親への背反した想いが外せないのだと痛烈にこの映画から感じます。母親に対するコンプレックスの無い人は、多分全く共感出来ない作品だとは思うけど、寺山修司を理解する上では絶対に観るべき映画です。
映像の斬新さもさることながら、寺山の内面が克明に描かれたところにこそ、刮目して観るべきです。

個人的なことを告白すると、私も母に物凄く厳しく育てられ、束縛され、いつも母親を殺したいと思うほど憎んでいた人間なのです。
でも、歳を重ねるとその憎しみは少しずつ薄れ、年老いていく母への同情心が混ざってきます。
寺山の描くこの映画の、「たかが映画の中でさえ、たった一人の母親も殺せない」という気持ちが、とてもよくわかるのです。

「母さん、どうか生きかえって、もう一度私を妊娠して下さい。私はもう、やり直しができないのです。」


という八千草薫のセリフも、とても共感する。

寺山が母親より早く死んだことが、最大の母親への復讐と思えてなりません。

※ついでに、田中未知著「寺山修司と生きて」に、寺山と母ハツの壮絶なる母子関係の記述があるので、この映画を観る上で大変参考になるかと思います。
当ブログにおける記事はこちら>>[レビュー]寺山修司と生きて/田中未知



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