日記のようなものを書くのは初めてになります。
今回、私の会社では10日間のゴールデンウィークが与えられましたので、
ずっとずっと、彼是、10年程憧れ続けてきた青森へ、4泊5日で一人旅に行ってきました。
青森へ、1人で旅行に行く20代の女子が他に居るのか疑問ですが…。
青森と言えば、私にとっては勿論、寺山修司!
太宰治を思い浮かべる人もいるかも知れませんね。
ちなみに、太宰治の本名も「シュウジ(修治)」です。
私は寺山修司派なので、以下は青森旅行記と寺山修司についての記述になります。
寺山修司は没後28年経っていて、まさにゴールデンウィークの5月4日が命日です。
私が生まれるより前に亡くなっているので、どんな人物なのか克明に知っているわけではないのですが、14歳の頃に彼の作品に触れてから、私は彼の書く短歌、俳句、詩、更には彼の撮った映画に魅かれてやみませんでした。
彼の切り取る「瞬間」のパワーというものは凄まじいものがあります。
一言で言えば、短い言葉に、人の情念を詰め込むのがとっても上手で、センスがあるんですね。
よく、「昭和の啄木」なんて言われますが、私も結構真剣にそう思っているのです。
現在、青森県三沢市には、「
寺山修司記念館」が建立されています。
彼の命日、5月4日には「修司忌」として、イベントが行われるのです。
更にゴールデンウィークは、青森ではぴったりとこのタイミングで桜が咲きます。
これは、ゴールデンウィークは青森に行くしかない!ということで、
今年ついに行動に移してしまったわけです。
以下、5日間の旅行のだいたいのスケジュールです。

①1日目【新青森:三内丸山遺跡】青森駅に宿泊
②2日目【弘前:弘前公園さくらまつり】弘前駅に宿泊
③3日目【三沢:寺山修司記念館】三沢駅に宿泊
④4日目【大間→恐山:大間崎の後、恐山へ】恐山宿坊に宿泊
⑤5日目【恐山→八戸:恐山観光の後、八戸の八食センターへ】東京へ帰宅
この記事は、
①一日目【新青森:三内丸山遺跡】青森駅に宿泊についての記事です。
それぞれ、1日ごとに別記事にしてまとめます。
▼さっそく出発!今年の3月から開通した東北新幹線『はやぶさ』に乗って来ました。
まるで飛行機のような「グランクラス」席は15席しかないそうで、完売でした。
エメラルドグリーンの車体がカッコ良かった!
通常であれば新青森まで3時間程度で着くのですが、地震の影響でしばらくはゆっくり運転し、4時間程かかります。
▼着いて早々、三内丸山遺跡へ。
三内丸山遺跡とは
縄文時代、約4500年前の大規模な集落地帯です。
一番多い時で、400人ほどの人間が住んでいたのではないかと考えられています。
そもそも東北地方には、こういった遺跡がたくさんあり、
この三内丸山遺跡では、重要文化財に指定されている石器や土偶などがたくさん発掘されていて、その存在は江戸時代には既に知られていたと言われています。
1953年頃から、その遺跡の存在に価値を見出すようになり、保存化が進められました。
それまでは、この場所に野球場や道路を建設しようと言う計画があったのです。
現在では観光地化していますが、今でもこの土地から採掘される石器などによって、研究が進められています。
今まで人間の歯以外の骨が採掘されたことは無いとのこと。
この遺跡には、人間のお墓の後もあるのですが、お墓のある場所では、土の成分によって、長い年月を経て骨が溶けてしまうんだとか。
でも、ゴミ捨て場となっていた場所は、水分が多かった為、動物や魚の骨が発掘されています。
▼パンフレットです。


雨が降ってて、青森はものすごく寒かったです!本当に桜なんて咲いてるの?っていうような、真冬のような寒さ!
ナメてました…。
▼立派な建物です。
▼屋内。まだ新しくて、広いです。この中に、石器などが保管・展示されています。
▼まずは屋外の遺跡、高床式建物。
もちろん、復元したものです。
何故、誰も見ていないものを復元出来たのか・・・?
それは、こういったものがあるから。↓

何かわかりますか?
穴が空いています。
これは、建造物の立っていた柱の穴なのだそうです。
しかも、驚くべきことに、全て「35cmの倍数」で穴の距離が保たれています。
これは、この三内丸山遺跡だけでなく、他の遺跡でも確認されているので、
4500年前当時から、「尺度」というものが存在していた証明となります。
この「穴」を頼りに、建物を建てるわけですが、地上から上の部分は、
他の遺跡や、その当時の状態などあらゆることから、えらい先生たちが研究して、
「おそらくこんなものだっただろう」という予想で建立されたものなんだそうです。
▼竪穴住居。
これも勿論復元したものです。
柱の配置、炉の位置などの跡は残っていたので、そこから予想して作られたものです。
手に入る材料が違うため、地域や時期によって、素材や仕様が異なっていると考えられています。
▼これは大人の墓の跡。
大人の墓は、等身大に穴が掘ってあって、その跡も保管されていたのですが、
うまいこと写真に収めることが出来ませんでした・・・
▼土器がたくさん発掘された場所
▼これは、子供の墓の跡です。
子供は、子供が入るサイズの土器の中に遺体を入れて、そのまま土に埋めたそう。
大人の墓は、住居から離れた場所にまとめてあるのに対し、
子供の墓は、住居から近い場所にあります。
そして、子供の墓は、圧倒的に大人の墓より多かったらしいです。
やはり医療技術などが存在しないので、赤ちゃんが無事に育つということがとても難しかったと考えられます。
▼三内丸山遺跡を代表する大型掘立柱建物。
めちゃくちゃ大きいのですが、写真で大きさをおわかり頂けるでしょうか?
これも、下の↓穴を元に、復元したものです。

この穴も、またまた、ぴったり35cmの倍数の等間隔なのだそう。
そして、この大きな建物が何のための建物だったのかは、未だ解明されていません。
「見張り台だったのではないか?」
「お祭りをする時にこの建物を中心として祭ったのではないか?」
など色んな説があるそうです。
▼大型竪穴住居
中はこんな感じ。

ここは、住居と言うよりかは、何かの集会所だったのではないかと言われているそうです。
1時間単位ぐらいでメンバーを募って、無料のガイドさんが屋外の遺跡を案内してくれます。
今回はそれで、ここに記載のあるようなお話を伺いました。
写真で載せきれないですが、既に当時から生ゴミとそれ以外のゴミを区別して一箇所に捨てていて、
生ゴミは池みたいなところへ捨て、普通のゴミは平地に捨てていたそうなのですが、それが積もって、
高さ15mほどの岡のようになっていました。
そのゴミを研究することによってわかったこともたくさんあるそうです。
例えば、当時食べられていたものは、うさぎやムササビをはじめ、
魚、イカ、ウニも食べていたんだとか。
遺跡から、イカやウニが見つかることは大変珍しいのだそうです。
また、ゴミから採取された栗のDNAを調べたところ、
天然に生えている栗の木ではなく、栽培した木だったことが分かり、
当時から栽培したものを食べる習慣があったことが分かっています。
それから、漆。
石器などに漆が塗られているものが見つかっていて、当時から漆の技術があったことに驚きました。
▼屋内の石器展示室。
▼国の重要文化財に指定されている石器です。
この三内丸山遺跡から発掘されたもののうち、1,958点が重要文化財に指定されています。
▼土偶。

土偶は、多産や豊饒を祈る地母神崇拝のための人形と解釈されることが多い、のだそうです。wikiより。
▼「針」とだけしか書いてなくて、何に使うのか謎だったのですが・・・
でも、私達が普段裁縫に使う針に極めて近いですね。
▼時代によって、少しずつ石器の成分や形が変わっていく、という展示。
要約すれば、始めの頃は土だけで作っていたものが、繊維を混ぜるようになったとか、
少しずつ形が変わっていったとか、そういったことが展示されていました。
▼屋内施設にもこんなものが。
他にも、着ていただろう服を復元したものなども置いてありました。
お土産コーナーには勾玉がいっぱいあって、それらしい雰囲気をかもし出しておりました。
着いた時間がけっこう遅めだったので、この日はこれでおしまい。
本当は青森県立美術館にも行きたかったのですが行けなかった!
後から知ったのですが寺山の作品も展示されていたらしいです、めちゃくちゃ悔しい
▼この日は晩御飯に三色丼を食べました。
東京では絶対一人でお店に入れないのに、旅行者であれば行動力がすごい。笑
2日目の記事へ続きます。
- 関連記事
-
スポンサーサイト