読んだ本、読んだ漫画、観た映画などの、ごく個人的な感想を綴るブログです。


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感想:★★★★★

村上春樹の愛読書、『The Great Gatsby』。
彼の代表作『ノルウェイの森』や、ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』にも登場する、世界的名作として名高い作品だ。
英語が出来ないとは何と愚かしいことなのだろう。
私はこの『グレート・ギャツビー』を日本語訳で読めば読むほど、
そして村上春樹訳の解説を読めば読むほど、そう自分にうんざりしてしまう。

村上春樹訳と野崎孝訳の両方を読んで、どちらの訳がより素晴らしいのかなぁとか、
どちらの訳がより実際の原文の雰囲気を有しているのだろうかとか考えるわけだが、
英語さえ理解出来ればそんなことは考えなくていいわけだし、
そういった日本語の比較をすることはとても無意味なことではないのだろうかと、考えては落胆してしまう。

私は、この『グレート・ギャツビー』を原文で読む為だけにでも、英語の勉強をしてみたいと思うほどだ。
もし魔法か何かで英語が突然読めるようになったら、私は真っ先にこの『グレート・ギャツビー』を手に取るだろう。

さて、そんな自分自身への憤りも込めつつ、この作品の感想と、両者の訳の違いについて記そうと思う。
まずこの作品が、どちらの訳で読んでも素晴らしいということは先に述べておきたい。
こんなことは、私なんかが今更書かなくても誰もが知り得る事実で、だからこそ、現代まで淘汰されずに遺っている名作たる所以だ。
日本文学は陰鬱だと思っている人が多いけれど、外国文学だって陰鬱だ。
でもどこかロマンと大胆さが漂っているのが外国文学だ。

野崎孝訳の方の『解説』に措いて、こう記されている。

エドマンド・ウィルスンが「ロマンティックであると同時に、ロマンスというものに対してシニカルである」と指摘した(中略)中でも『グレート・ギャツビー』にはその二重性が見事に生かされている(野崎孝/p.305)


まさにその通りの感想を持つに違いない、そして、そこがこの作品の魅力だと私は思う。

ギャツビーの華麗なる成り上がりぶりのロマンシズムと、そのロマンスが悉く失われていく果敢無さが、とてもシニカルだ。

村上訳と野崎訳の違いについては、どちらが良いとは私は言い切れない。
まず、私が英語が出来ないから計りかねるということと、
どちらの訳も、良い部分がそれぞれ違うと感じるからだ。
村上訳の方が噛み砕いていて分かりやすいなぁと思う部分もあれば、野崎訳の方が分かりやすいなぁと感じる部分もある。
(もちろん、個人的な感想であって、圧倒的に村上訳が優れていると考える人も居るだろうし、野崎訳の方が優れていると考える人も居るだろう。)

例えばこの一節。どちらも同じ部分だ。

彼女は、「むしろトムにこそふさわしい挑戦的な態度で、きらりとあたりに視線を投げ、それから自嘲的に笑った「すれちゃったのよ――あたし、すごーくすれちゃった」(野崎孝訳/p.32)


その目は挑むような強い光を放っていた。それは先刻のトムの目にどことなく似ていた。それから彼女はどきっとするような捨て鉢な笑い声をあげた。「それは世慣れたっていうことなのかしら。まったくこの私が――世慣れたですって!」(村上春樹訳/p.39)


どちらが好きでしょうか?
私は、この部分は野崎訳の方が断然好きである。

村上春樹が、「翻訳には賞味期限がある」といったようなことをこの本の解説に書いていたが、
「すれちゃった」or「世慣れた」という部分に措いては、或いは死語っぽい空気を孕んでいたとしても、断然「すれちゃった」の方がわかりやすいし、女って「私って世慣れしちゃったなぁ」とは考えない。
やっぱり、「私ってすれちゃったなぁ」って考えるものだ。ほんの少しの違いなので、どうでもいい部分ではありますが・・・。
しかし、村上訳を先に読んだ時、私は「世慣れした」の部分を読んでも共感を感じなかったのだが、
野崎訳で「すれちゃった」と読んだ時には、「うわぁ!わかるなぁ」と共感した。
それで、「確か村上春樹はすれちゃったなんて表現してなかったはず」と思い村上の方の本を開いたら「世慣れした」となっていて、断然「すれちゃった」の方がわかりやすいな、日本語の言い回し一つでこんなにも印象が変わるのだな、と驚嘆したものだ。

他にももう一節。

こうしてぼくたちは、涼しくなりかけた暮色の中を、死にむかって疾走していったのだ。(野崎孝訳/p.225)


そうやって僕らは涼しさを増す黄昏の中を、死に向けて一路車を走らせたのだ。(村上春樹訳/p.248)


「涼しくなりかけた」、「涼しさを増す」。
この表現は心情を例えた表現なので、「涼しさを増す(村上訳)」の方がより、悲観的でわかりやすくて良いと思うが、「死にむかって疾走していったのだ。(野崎訳)」と「死に向けて一路車を走らせたのだ。(野崎訳)」だったら、私は「死にむかって疾走していったのだ。(野崎訳)」の方がドラマティックだしわかりやすくて良いと思う。
でも、村上春樹があえて「一路車を走らせた」と訳しているところにもドラマを感じるから、
このように、細かい部分を拾って行けば、本当にどちらが名訳とは言い切れない。

しかし。
この作品に措いては、「最後の一節」がとても重要になってくる。
『グレート・ギャツビー』を読んだことがなくても、「最後の一節」がとても素晴らしいのだということを知っている人は多いと思う。
以下はネタバレになってしまうので、まだ『グレート・ギャツビー』を読んだことの無い人には、楽しみにとっておいてもらいたい。
それでも読みたい方、もう最後の一節を知っている方は「続きを読む」をどうぞ。

Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that’s no matter ― to-morrow we will run faster, stretch out our arms farther. . . . And one fine morning ――

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.(原文)



ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を信じていた。あのときはぼくらの手をすりぬけて逃げて行った。しかし、それはなんでもない――あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう…そして、いつの日にか――
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。(野崎孝訳/p.300)


ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(村上春樹訳/p.326)



どちらがより素晴らしい訳か考えた時、私はこの部分に措いては断然村上春樹訳が素晴らしいと感じる。
村上訳でこの最後の一節を読んだ時には、感嘆の息が漏れるかと思ったぐらいだ。
英語の出来ない愚かな私は、逆に考えればあらゆる訳を日本語で愉しむことが出来るわけで、その比較というのもなかなか面白いのだから、悲観的になりすぎることもなかろうと、前向きに考えてみるのです。

このロマンシズムとシニシズムの共存、散りばめられた名文、もし読んだことの居ない人がいるのなら、是非読むべきだとおすすめしたい名作です。
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